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四苦八苦の元ネタ

こんにちは、お元気ですか。

この間NHKで仏教の番組を見ていたら、「四苦八苦」について解説がなされていました。
四苦八苦が仏教用語であること、私は知らなかったです。
四苦八苦は人が生きる上で避けては通れない「苦」の種類を表しているそうですが、八苦に「大嫌いな人、顔も見たくない人でも出会ってしまう苦しみ」が入っているのが衝撃的で、この苦しみは「苦」として立派に認められていて、しかも四字熟語として現代まで残っているのね・・・2500年前から・・・。

以前100分で名著で取り上げられたマルクス・アウレリウスの「自省録」に同じような言葉が取り上げられていたなと思い出しまして、紹介しますと
早朝に自分に向かっていえ、私は今日もおせっかいで恩知らずの 傲慢な欺瞞的な嫉み深い非社交的な人間に出会うであろう。
というところなんですが、知った時は「ずいぶんと毒舌で、でも、こういう風に割り切らないとやっていけないくらい皇帝の仕事は大変なんだな」と思いました。
その時は会社員で私の環境も悪い状態でしたので、この言葉を聞いて「明日からも強く生きていこう」と心に誓ったものです。
上記の八苦と似ていますが、言葉の強さからマルクス・アウレリウスのことをちょっと癖のある私と共通項のある戦友のように捉えてしまい、この考え方に対して閉じた理解をしていました。

私はいやだなーと思う人に当たる割合が多くて、なんていうか余計な一言を言いたくなるというか、許せないレーダーに引っ掛かりやすいというか、逆にちょうどよすぎるが故に雑に扱ってしまう対象になりがち。(すぐに打ち解けられるとか良いときもあるよ!)
また、私からは顔の皮が厚い偉そうな人に対して過剰な拒否反応を示してしまいます。

この頻度の高さからして私の素質?に問題があるんやろな。この素質をどうにかしなかんなと思っていました。だからアリストテレスを読んでいるのもあるんですが
でも、上記の八苦を知ったときに、自分ってダメな人間なのかもしれないと責めていた気持ちに実はそこまでダメじゃないんじゃない?と安心したというか、そこまで深刻ではなく、誰にでもあることだとブッダから言ってもらえた、ブッダと悩みを共有できてちょっと嬉しいとか、理解者が現れてくれた喜びとか、そういう気持ちになりました。

苦しみと聞くと、人生の中で重くのしかかる片手くらいしか起こらないものだと思いがちですが、8個(種類)も並べられると、確かに重いけど、この世がいかに無常であるか思い知らされ、それぞれの苦しみに対しての心構えの仕方が変わるような気がします。
四苦八苦|じつは身近な仏教用語|仏教の教え|日蓮宗ポータルサイト

 

P.S.
以下のことは上記の発見について真逆のことを言っているかもしれないんですが、これも人間らしいよなと思って書きます。
協調性を重要視するこの世の風潮について、ここで全く変な発見をしてしまったのですが、私はブッダが八苦に入れているとわかっただけで、どこにいるのかわからない皆と同じになれたような気持ちになり、自分に対しての後ろめたい気持ちが薄まったのです。
ダメな自分と言うのはみんなと違ってダメな自分と捉えることができると思いまして、自信がない一人の自分、つまり孤独な気持ち。
そこにブッダという理解者が現れた気がして、私は普通の人間になれたような気がして、安心感を得たのです。
孤独な気持ちはネガティブな気持ちで、できれば長い時間で感じたくない気持ち。協調性はその感じたくない気持ちを感じないようにするために欲するものなんだなと。
そして、現実(ダメな自分)は何も変わっていないのに、その言葉で現実が変わって見えた私は、なんて浅はかな人間なんだろうと思います。

たお